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良書との出会い⑧『扉はふたたび開かれる 検証 日中友好と創価学会』 時事通信出版局編

われわれ国会議員が中国を訪問し、中国政府の幹部と懇談する際に、決まって言われることがあります。それは、「中国は、井戸を掘った人の事は忘れない。創価学会の池田大作名誉会長にくれぐれも宜しくお伝えください。」という言葉です。しかも、公明党の訪中団ならまだしも、各党の参加する超党派の議連で訪中した際にも、同じことを言われます。

日中関係を語る時、1972年の国交正常化に至る段階も含めて、「民間交流」の果たしてきた役割は、非常に大きいと言えます。これが他の国との二国間関係との、大きな違いの一つだと思います。本書は、時事通信で北京支局長、上海市局長を務められた信太謙三氏の監修により、テレビでお馴染みの田﨑史郎解説委員や時事通信の記者、ジャーナリストによって、国交正常化にいたる過程を事実に基づいて詳細に描き、かつ日中関係に対する未来志向の提言までとりまとめた一冊となっています。少しだけ、その内容を紹介いたします。

戦後、米国との関係に配慮した日本は、台湾の「中華民国」を唯一の合法政府と認めてきました。しかし、吉田茂首相自身、大陸の7億人の人口を無視した「虚構の日中関係」に対して、複雑な思いを抱いていたようです。こうした時期、国交回復にいたるまで、LT貿易をはじめとする経済交流などの他、一部の友好人士が日中関係の「地下水脈」となって、なんとか両国をつなぎとめようとしていました。

しかし、米国との関係を重視する岸政権、あるいは佐藤政権において、大陸中国との関係は冷え込んでいきました。こうした時代背景の中、1968年に、創価学会の池田大作会長が「日中国交正常化提言」を発表するに到ります。

中国指導部は、当時、創価学会に注目をしていました。それは、当時、対日工作に従事した孫平化氏(のちに中日友好協会会長)の回想録で、こう表現しています。
1960年代の初め、孫平化氏が中南海の周恩来総理の執務室に報告に行った際に、総理の注意を特にひいたことが二つあった。ひとつは、日本が道路を上下に交叉させて、「高速道路」を建設していること。そしてもう一つは、「創価学会」の躍進と勢力の拡大についてだったとのことです。
1960年代の創価学会は、池田会長が就任してからの3年間で会員数も倍増し、また1961年には公明党の前身である公明政治連盟が発足しています。選挙を重ねるごとに議員数も拡大し、1964年の公明党結党時には、国政において既に自民、社会に次ぐ第三党に成長していました。経済界でもない、労働組合でもない、一般庶民の団体として、平和問題にも深い関心を持つ「創価学会」という団体に、周恩来総理が大いに興味を示したと、振り返っておられます。そして周総理から、「創価学会」と交流を進めるよう指示が出たとのことでした。

こうした中の1968年、池田会長は日中国交正常化提言を発表されました。数年前には、社会党の浅沼書記長が、訪中した際の発言が引き金となって刺殺されており、日中関係に触れることは命の危険への覚悟も必要だったでしょう。あるいは、1966年から文化大革命が勃発し、大混乱する中国の様子が連日、日本で報道されていた時期でもあり、国交回復への流れが行き詰っていたときでした。

池田会長の提言の内容は、主に3つの柱からなっています。すこし紹介しますと、
「一つは、中国政府の存在を正式に認めること。第二は、国連における正当な席を用意し、国際的な討議の場に登場してもらうこと。第三には、広く経済的、文化的な交流を推進することであります。」そしてそれぞれの提案について、なぜそうすべきなのか、現在の国際情勢の分析、あるいはアジアの平和構築や経済発展の観点から踏み込んだ発言が続きます。

本書の評価を借りて言えば、いまこの提言を読んでも、「決して観念的・情緒的な友好論ではなく、リアルな現実認識に基づいた政策提言」であり、「その後の日中国交正常化への道筋は、この提言の内容に沿う形」で進んでいったとしています。

そして、これを中国に打電したのが、当時日本に駐在していた記者である劉徳有氏(後に中国文化部副部長)です。わたしも直接、お会いしたこともありますが、後続を育てようとする厳愛の方でした。この電報が、当時、日中関係改善への打開に行き詰っていた中国政府の最高指導部を動かしていくことになります。

池田会長の正常化提言は、朝日新聞が朝刊1面三段で、読売新聞は2面四段で報じました。大陸との国交回復に積極的ではなかった政権与党の自民党の中にも、これを高く評価する人物がいました。それが、富山県出身の政治家の松村謙三氏でした。かれは、すでに4回も中国を訪問しており、日中関係改善に尽力をしてきたが、突破口を開けないでいました。松村氏は、池田会長に訪中を要請します。しかし、池田会長は、「私は宗教者であり、社会主義体制である国に、宗教者の次元で行くわけにはいかない。国交を回復するのは、政治の次元でなければいかない」とお断りをし、公明党の訪中団を提案することになりました。

当時、日中国交回復を担える政党は、公明党しかなかったと言っても良いと思います。佐藤政権下で、自民党は対米関係重視の姿勢を崩さなかった。そして、最大野党の社会党は「米帝国主義は日中両国人民の共同の敵」としていたため、日本の現実に即した外交を展開することはできなかった。また日本共産党は、ソ連との関係において中国共産党との路線対立があり、日中の国交回復においては、役割を果たすことができませんでした。

こうして、公明党第一次訪中団が結成され、1971年に周総理との会見に臨みます。その際、公明党側は先の池田会長の提言の内容を踏まえ、日中国交回復に向けて党の方針である「復交五原則」を発表しました。その後、訪中時に起草作業を経て、中国側がこの五原則を支持するという内容を含めた「共同声明」が発出されました。これは、結果的には、翌年の日中共同声明のひな型になりました。

その後、ニクソン大統領の電撃訪中、田中角栄内閣の成立と、時代が大きく変わっていきます。公明党は訪中を重ね、中国から日本への損害賠償請求の放棄をふくめ、共同声明について中国政府と議論を重ねていくことになります。

つい長々と書いてしまいましたが、これ以上ネタバレをすると、読者のみなさんや関係者の皆さんに怒られそうなので終わりにしますが、是非この夏、お読みいただきたい一冊です。
いま、大きな壁にぶつかっている日中関係。この日中関係を創り上げていくことが、歴史上、いかに難産であったか。日中双方の先人達が、必死の努力で民間と民間をつなぎ合わせ、経済の交流に一縷の望みを託しながら、閉塞状況をなんとか突破しようとしたことが、よく分かる一冊です。お勧めです!

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